(身近な)人について、悪口や陰口を(本人の前以外で)言ってはいけません、を こじらせるとこうなる。

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面白かった。

以前に書いた「(身近な)人について、(本人の前以外で)語ることは悪である、これをこじらせるとコミュニケーション障害を起こす」と根っこは近いと感じた。この感覚を持っている人がけっこういそうだ、ってことを得心できる増田だった。

 

crode.hatenablog.com

ディスコミュニケーションと正義感は紙一重ということ。「人のことを悪く言わない立派な人間になる」という教えを真に受けると、誰についても「(身近な)人のこと」について語ることが出来なくなる。何を言っても陰口が交じるからね(それは仕方がないことなんだが)

一歩引いて「だれそれさん」のことは言わず、「同学年の人たちは」「クラスでは」「学校として」といった「個人でないエイリアス」にすると、社会を語る的なプラス反転補正がかかり、急に雄弁になる。

だが、それも「学校どうだった?何かあった?」とローカルに迫られると、代理オブジェクトに整理するのが難しくすぐに答えられないため「別に」でスルーするしか無い。

それを長く続けてこじらせると、こうなる。

三池崇史監督は不可能を可能にする男だから重宝される(業界都合的な意味で)

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漫画原作の実写化、ジャニタレ、アイドル、三池崇史

原作レイプ駄作映画の「四大元素」となった組み合わせという時点で、まともな映画好きは見ないか、分かっていてネタとして見るか、というのが今の状況だろう。

映画としてはつまらないが、居酒屋談義、床屋談義のネタとしては面白い。

漫画原作の実写化、ジャニタレ、アイドルという三要素が揃った時点で「低予算、役者のスケジュールがない、撮影期間もない」というオマケがもれなくついてくる。これをなんとかファッションアイテム映画に仕上げ、期待値の低い層の無難な消化アイテムとして仕上げる、これがミッションである。

普通、映画を撮りたい人ってのは、そういうのがイヤでクリエイターを志しているのが普通だろう。なのでこんな「結果はわかっているけどクライアントの依頼なのでなんとかメンツ立てて赤字だけは避けてくれ」という作品づくりをわかってやってくれる職人さんは少ない。

だから三池崇史監督しかいない。

いいものを作ることより、納期、経費、仕様を優先してくれる。その条件でいいものを作れる範囲なんか最初から見えている。それでも自分の追求はその範囲内のみにとどめて作ってくれる。

そんな監督だから重宝される。

そういう意味ではほんとうにスゴイ。

見たくないけど。

内容がないのではなく、内容にコミットすると共犯者になるコミュニケーションだから参加できない。

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非コミュ大好きはてな村に見事に煽りタイトルをぶち込んだだけあって盛大にウケている。

さて、表題の内容がないコミュニケーションだが、実は非コミュ層はあんがい内容がないトークは得意だったりする。本当に内容がないなら無害だからだ。

「いい天気ですね。」「そうですね。」「明日は雨っぽいですよ。傘もってきたほうがいいですかね。」「折りたたみ持ってますよ」

ただこういったコミュニケーションをいくら積み重ねても「無害な人」以上にはならない。小数点以下をいくら掛け算しても大きくならないようなものだ。ゼロにはならないがこの人と積極的に話したい、お近づきになりたい、という目的で無害なコミュニケーションを繰り返すことはあまり有効ではないのだ。

これらで出来るのは「話しかけても大丈夫な人」ぐらいまでだ。シロクマ氏の推奨方法ではたぶんこの部分で止まっている。

さて、ここから先、ウェイ層に食い込む意味でのコミュニケーションとは、有毒なコミュニケーションになっていかなくてはならない。

典型的な例としては「誰かをダシにして話すこと」「ヒトについて話すこと」だ。悪口、陰口とまではいかないまでも「○○さんってさあ」ってところだ。この領域に踏み込むということは「共犯者」にならなくてはならない。多くの非コミュは「言われる側」もしくは「言われているという自意識」にとらわれているので「言う側」に回ることは非常に抵抗がある。この時点でコミュニケーションを離脱する。

だが、ここで入っていかないと「仲間」にはなれない。しかし非コミュ層というのは「人の悪口を言ってはいけません」「人の陰口を言ってはいけません」「人の嫌がることをしてはいけません」という指導を素直に受け、自分がされて非常に嫌な思いをした(もしくはしたと思いこんでいる)のでここで立ち止まる。これ以上行ったら、自分は「悪い側」に落ちてしまう。オレはアイツラみたいにはならない!というプライドと正義感がここで離脱を選択してしまう。

で、「アイツラの話は内容がない(人の噂ばかり)」となるわけだ。

モノ、コトの話、公人に近い芸能人や有名人をダシにしての批評的会話は「してもいいこと」なので抵抗がないが、ごく身近な人物「だれそれさん」をダシにして会話することはものすごく抵抗がある。一方で「共通の知人」以上に会話を盛り上げるダシはそうそうないのだ。なのでメディアに掲載されたモノゴトのみで会話をしようとすると、モノやコトへの造詣が深く興味の気が合う人以外とはなかなか会話が続かない。

実際に内容がないかどうかよりも、「それは人としてすべきではない」という意味で内容がないという表現をする。

では「あいつら」として悪く言うことは悪口ではないのか?個人を指して「だれそれさん」の悪口は言うことは「悪」だが、カテゴリー存在としての「あいつら」にすることによって「だれそれさん」だった個人は存在概念の「モノゴト」に置換される。「モノゴト」についてアレコレ物申すのは非コミュ的には教養的行為であり、「内容がない」会話から、「意味がある会話」へと昇華されるのだ。

「だれそれさん」の話ばかりしている>悪いヤツラがすること>教養のある人間のすることではない>内容がない といった展開なのである。

話の内容が実利的かどうかではない。不正義の行いは問答無用ですべきではないということでシャットアウトされてしまうのだ。ただこの”本来の”は教育が産んだ幻であり、偶像である。

実際には人をダシにする会話には悪口だけが含まれているわけではなく、その人の近況や悩み、良いことも多く含まれており、参加することは実利面からすれば十分あることもある。むしろ、そういう会話をしていないと周囲の人間を良くも悪くも理解することが出来ず、ますます会話に参加できない。「最近○○さん、●●のせいで元気なくってさあ」みたいな近況などもまったく把握できず、声をかけるキッカケもできないし、その人にって重要なことについて会話することも出来ない。

だがある意味では陰口にはちがいなく、それらを会話の中で厳密に分離し、悪口だけをシャットアウト検閲することは不可能である。不可能であるから最初からコミットする訳にはいかない。

ここで断絶が発生しているのだ。

毒をぜんぶ取り除こうとすると、美味しいところも何も口に出来なくなる。それが「内容がない会話ができない」ということの正体だ。

地方の大学生でクルマ買うなら、大学の自動車部を頼れ

hobby-diary.hatenablog.com

なかなかにリアルな数字だ。

だが、軽自動車で10年15万キロはいくら安くても、けっこうアチコチ壊れるので案外高くつきそうなところが気になる。

さらに言うなら

 

0.年式か距離か、どっちでも壊れるもの

5年5万キロがメーカー保証。ただ軽はともかくアメリカ輸出しているクルマはアメリカでは24万キロ保証である。なのでアメリカに輸出している仕様でなら距離は多少目をつむり、国内向けなら年式を多少きにすべき。パーツなども考えても1世代前モデルが狙い目だ。3世代古いと共通パーツが多いかどうかなども気にするべき。軽はたしかに安いが輸出されていないこともあり距離での耐久性は低いし本体価格も高くなりガチ。普通車もトータルで見て考慮すべき。

 

1.車検はユーザー車検に!
時間がある大学生なら、絶対ユーザー車検にすべき。一度や二度落ちてもいいんだから。

 

2.購入やメンテは大学の自動車部に相談しろ!

だいたい地方で工学部があるなら自動車部がある。もちろん自動車部に整備をやらせろというわけじゃなく(やってくれたらラッキーだが)詳しい人や整備が安いところを紹介してもらうのだ。自動車の世界は人件費なのでまだまだ「ツテ」がものを言う世界。彼らは先輩から脈々と受け継がれたツテを持っていることが多い。

ネットで探すのも大事だが、実際のところ「個人売買で直接」以上に安く手に入る方法はない。整備1つ、部品1つとっても、中古パーツなどはわかる人、自分で付けられる人なら相場よりとんでもなく安く手に入る世界であるが、ネットも便利だとはいえ詳しい人でないと使いこなせない。オートバックスあたりの価格は中古パーツ流通の世界を知ると目がクラクラして近寄れなくなる。

自分が行っているところは、商品はいっさい置かないが、ネットでもなんでも手に入れてきたものは付けてくれる、工賃だけの店だ。個人宅に毛が生えたようなところだが、在庫リスクがないので工賃もうんと安い。パーツはネットで中古や処分品をさがし、自分でつけるのが難しいものだけやってもらう、こういうスタイルならかなり安くできる。

クルマを手放したい人と欲しい人のマッチングだが、単価が高い&置き場を取るので、仲介料が高い。業者は食わなきゃならんしリスクも取ってる。

車検切れでも移動用の仮ナンバーとって、自分で車検や登録をやれば10万円浮くことだってある。中古車屋はそこが利益なのでやってくれないが個人売買なら可能だ。平日なので時間も手間もかかるがそれこそ大学生なら、本領発揮できるところだ。よい社会勉強にもなる。

 

3.興味がなくても、車の知識があって損はない。

クルマを足として付き合う必要がある人なら、クルマに興味がなくても自分の足に詳しいことは決して損しない。クルマはその人の知識によってとんでもなく費用に差が出るモノだからだ。莫大な市場があり、一般の人はあまり知らないところでとんでもなく流通しており、PCのように標準化された互換性があるわけではないし、携帯のように独占世界でもないので、かなりネット化されたとは言えまだまだ「おまかせ」は高くつく世界なのだ。

自分の足、だからこそ、詳しいことは損しない。

 

4.車の状態に気を配ることは事故防止にも繋がる。

タイヤ、ワイパー、ガラス、ブレーキ、直進安定性、異常な振動、ライト、ウインカー、走行音ete…こういったモノの状態に気を配り、良い状態を、安く維持するために多少の手間ひまをかけ、妥協できるところと出来ない所の判断力をつけることは結果的に車の状態に気を配ることになり、事故防止にも繋がる…と思う。それは絶対的に安くつく。

 

おまけ.携帯なら、液晶割れモノをもらって格安のパーツで修理し格安SIMで運用するようなことまで踏み込めば相当安く出来るようなものか。学割が使える学生さんならそうでもないけど。

「諸悪の根源」が存在するという意識はもっと害悪

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まあ、確かにこのケースでは「根性論」が悪いんだろうけど、じゃあ根性論を撲滅すれば世の中良くなるかというとそうでもないだろう、ということは言いたい。

新卒で研修しているだけで、特に大きな仕事をさせるだけでもなく、ちょっとずつ作業に慣れてもらって、定時に帰ってもらって寮まで手配して全部面倒見て「とりあえず会社に毎日来てくれ」しか要求してない状況ですら「会社に行けない」といった状況で辞めた子もちょくちょくいるからね。さすがに「会社にとりあえず来てくれ」ぐらいはシステムじゃなく本人のメンタルのせいだろ、って言うぐらいは許せよ。

この「諸悪の根源」を信じている人ってのもけっこう厄介でね。それをなくせば全てが良くなるように思われるのは困るんだ。何事も「ほどほど」が大事。

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防腐剤…着色料…保存料… 様々な化学物質 身体によかろうハズもない。しかし、だからとて健康にいいものだけを採る。これも健全とは言い難い。毒も喰らう 栄養も喰らう。両方を共に美味いと感じ血肉に変える度量こそが食には肝要だ。

 今、耐えるべきなのかそうでないのか。

それに対する明確な基準など無い(とりあえず国の基準はあるが、それも天地天命の真理というものではないので)

なにか「ファイナルアンサー」が存在し、それに沿えば天国に行けるというのはあまりに宗教的だ。

漫然と口に物を運ぶな。何を前にし、何を食べているのか意識しろ。それが命 喰う者に課せられた責任。義務と知れ。

 唯一の答えはない。常に自分が何をしているのかある程度客観的に意識することが重要、それから逃れ、何かの「真理」があると依存することは、奴隷社畜であれ、超ホワイト企業であれ、堕落すること。現業公務員とか見ればわかるでしょ。

アニメなど録画切る切らないの話(なぜ、けものフレンズを切らなかったのか)

 切る、という表現は非常にキツイので使わないようにしている。(今回は切る切らないについて言及したいのでやむを得ず使っている)

まあ「これ以上の視聴継続を断念する」ってことだろう。

自分の場合は「保留する」ということにする。

幸いにしてnasneにしてもそれなりの録画容量があるし、AnimeLockerはMP4エンコードされれば100~200MB/30分なので、「2GB/1クール」であり、1TBあれば500クール分の番組を溜め込める。1クール50番組だとしても、10シーズン、2年分である。今は3TBですら1万円しない時代であり、1500クール/HDDである。

かような録画環境であり、1話でつまらなかったと思っても、即録画リストから外す必要はないのである。

あと視聴スタイルもある。

そもそもこれだけのボリュームを全部見るということはいくら好きでも不可能であり、「あたまから全部見る」ということは最初から諦めている。「1話からちゃんとみないといけない」という変な自己縛りを捨てることである。

全部録画されていれば、どうしても見たくなったら見れば良いのであり、つまみ食い的に見ることができる。

自分の場合、5話とか、下手すると最終回から、なんてこともある。

名作といわれる作品でも全話一つも残らず面白いか?というとそうでもないことも多い。傑作回、偶然なんとなく途中の回で見ても、後からどうしても頭から見たくなったら、それから見たって良いのである。

これだけの作品があれば、どうしたって「型」があるわけで、途中から見ても理解できることも多い。逆に言えば「理解できない、でも見たい!」という強い衝動が出てきてから見たくなったら、それはマイ名作なのである。

「けものフレンズ」に関して言えば、自分は1話は見ていなかった。nasneはなぜかエラーで止まっていて、AnimeLockerのほうには残っていた。3話ぐらいでケーブルカーが壊れている話を最初に見て「ああ、人類は衰退しました系かな?」と思っているうちにみるみる話題になっていった感がある。

というわけで「なぜ切らなかったのか」という問に関しては「そもそも最終回前に切るという発想がない」である。(さすがに全部は残せないので、最終回後もある程度の期間見ない場合は整理はすることはある)

途中から見ても、興味が出てから最初から見られる環境を整える、というのは実に快適である。

とはいえ、今はそれができる録画環境があるが、昔からそうだったというわけではない。

その場合に役に立つメンタリティとして、誰が「1話から全部確保してみていなければ語る資格はない」とでも決めたのか?である。

別に話題になってから、後半だけみてよかった、と思ってもよいではないか?それで気になって配信なりレンタルなり購入なりするなら、そのほうがよっぽど健全だと思う。

マンガの実写化が失敗しやすい理由にもう一つ根本的なことを付け加えたい。

originalnews.nico

まあ、そうだよね。このとおりだと思います。

 

一方で成功しているものもある。

だが、基本的に失敗する。

なぜか?

 

「マンガの実写化は、実写になった段階でギャグからスタートだから。」

 

もうね、マンガの格好をした役者が出てくるだけで吹く。

”多くの人気マンガ”で、頭身、パース、髪や目や肌の色、質感、スタイル…すべてが(多くの日本人の)人間の基準から外れている。

それ故にマンガなので、それを実写にした段階で破綻するわけ。

存在自身がマンガ、というレベルのスーパーモデルやスーパーマッチョの役者さんが数多くズラッと揃っていて、いつでもチョイスできるほどハリウッド級に役者を選び放題なら良いけど、それも無理。

 

もちろん例外もある。

原作の段階で、いわゆるマンガチックな絵じゃない、スケッチのような絵の場合だ。「月下の棋士」とか。

 

また、池上遼一氏に代表されるその系統の絵はある程度アジア人によせているので、ある程度のイケメン美女ならカバーできるかもしれない。

じゃあ、そういう原作を選べばいいのに、と思うが、そこからが元記事の理由でできない。

 

すると、どうしてもギャグからのスタートになる。

 

ジャニタレとアイドル揃えても、基本的にコスプレ学芸会からのスタートにしかならないわけ。

 

これを克服して名作に持っていくには

・マンガレベルのスーパーキャストを揃え

・マンガレベルの映像演出を例え予算がかかっても揃え

・短時間で見せるシナリオになるまで練り続け

…と「そんな予算あったらマンガやらんわ」っていう次元になる。あくまで低予算としてマンガ原作がチョイスされていることのほうが多いのだから。 

 

一方で(興行的にはともかく評価として)成功している実写化マンガはだいたいコメディだ。

変態仮面、ピンポン、デトロイト・メタル・シティクロマティ高校…etc

これらは人間の役者で「あいつらがいる」それだけで笑えるのだからかなり強い。コスプレ学芸会であっても、笑わせるのが主であり、それ自体が笑いなのだからマイナス要素が少ない。もちろん原作としてコメディを選ぶということは、逆にマンガと実写の違いを「活かす」ことに意識があるスタッフの可能性が高いから、よけいにブーストがかかる。

こち亀等は、作りは元記事のいう「業界の都合」バリバリであったが、原作がギャグよりのため「駄作ではあるが許される」ぐらいの範囲にかろうじて収まったと思う。

 

耽美&シリアスな原作を実写化することが悪いのではないが、もともとハードルが高いのに志は低く、芸能の都合だけでやるのだから、そりゃ失敗するに決まっている。

※今制作が決まっている範囲だと「聖☆おにいさん」はよさそうに思う。