オタク中年化問題は、オタク関係なく、単なる少数コミュニティ依存問題だと思う。
言いたいことはわかるし、この話に興味があることにも共感する。
ここではいわゆるオタク趣味を「アニメ/マンガ、ゲーム、アイドルなど直接的に関係できない存在への入れ込み」とする。
が、この話、主語をオタクにしなくても成立する。
たとえば、クルマ、バイク、音楽、ライブ、バンド、演劇、だいたいにおいて「趣味」と言われるものなら当てはまる事例がいくらでもあるだろう。
自分は「趣味」はあくまで自分が行うものであるからこそ趣味であり、他人は他人と割り切ってきた。むしろ「他人の動向に左右されるのを忌避してきた」と言っても良い。
が、どうやら世間はそうではないらしい。
趣味といいつつも、実は○○さんたちと一緒に遊べる…ということのほうが主になっていた、というのをよく散見するのだ。
自分は、○○さんがいなくなったら寂しいけど、だからといって止めるようなものは趣味ではないと思っていたのだが、そうでもないらしい。
もちろん、気の合う仲間がたくさんいるということは趣味の楽しみをブースト(過給)はする。本当にピークに達すると熱狂的になる。だがブースト状態でないと楽しくない…というのは、その「楽しい」というのが趣味そのものの魅力ではなく「ブースト状態になること」になっているからなのだ。
創作するタイプのオタクはそれになりにくい…のはなんとなくわかる気がする。創作に限らないが、なにかを完成させる…というのはずっと楽しいわけではない。プラモデルなども「9割は楽しくない」のである。タミヤ模型でも「模型趣味は最後にちょっとだけ楽しい遊び」と言っているほどである。つまり「ずっと楽しい」のが普通ではない、仲間と語らいはあくまで楽しみを増大させるだけであって、本筋の楽しみとはそんなに永続的ではなく延々とツライ自己発電を続けた先に少しだけ光るもの、ということを体感的に知っている人たち…が創作するタイプのオタクに多いということだろう。
ずっと楽しい…は健全ではないのである。
釣りなんかもそうだ。9割は楽しくなく、釣れた時にちょっとだけ楽しい…
だからこそ「一生幸福でいたかったら、釣りを覚えなさい。」とまで言われるのだろうと思う。
逆に、パリピというのは多少合わない人たちとでもとにかく掛け声や酒でなんとか波長を揃えられる人たちだと思っている。彼らも彼らで「楽しくするためには無理やりでもブーストしなければならない苦労がある」ことを知っているのである。行き過ぎるとドラッグになるが。
翻ってオタク趣味は「気の合う友とはとことん合う」タイプに属する。オタクというのは、波長を合わせにくい一方、あった時に爆発的に快楽がブーストする。だから(少数だけど合うならば)「合う」だけでガツーンと快楽が上がるのだ。そこにはパリピのような「盛り上げる苦労がない」これは危険なのである。だって合うだけでガンガン共振して振れ上がり、楽しい状態が続くんだから。
だからこそ、その合わせにくい人たちに出会えたコミュニティが人生のステージ変遷でポツリポツリと抜けていった時に(他と比べて)「穴埋め」ができない、やりづらい。それが「オタク中年化問題」だと思っている。