(陳腐だけど)明るいお葬式だったありがとう庵野監督。

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シン・エヴァンゲリオンが「お葬式」とは、ほんとうにそうだと思う。

事前に奥さんが「おおきなカブ」というマンガをアップしてくれていたのはよかった。ほとんどネタバレとしかいいようがないが、あれを読んでいればなにも不思議ではない。あとは映像と演出だけ※楽しめればよかったのだ。

※残念ながらそこは不満、でもわかっていて陳腐にしているのもわかるので、もういい。

 

僕が最初にエヴァンゲリオンを見たのはTV放送のとき。95年だったかな?当時、アニメはTVゲームに押されまくっていて、OVAも今の深夜アニメのごとくだんだんマンネリ化してきてクオリティが落ち始め、年齢層高め狙いのアニメは本当に死にかかっていた。

そのタイミングで本当に毎週面白かったのだエヴァンゲリオンは。

庵野監督といえばやはり「トップをねらえ」が印象に残っていて、お約束のアニメ、マンガ、特撮フォーマットのパロディをベースとしつつ、圧倒的な作画と壮大な演出で一つの話として見せられる人という印象だった。

エヴァンゲリオンはまったくその期待に答えてくれた。

そういう意味で僕はキャラクターにはそんなに入れ込んでいなかったので、致命傷はまぬがれていたのだ。最終回も「あーあ、思いつかんかったんやな。でもこれやっちゃうのw」ぐらいだった。

エヴァンゲリオンに惚れ込んでいたのは、ウルトラマンのもつ圧倒的なケレン味と、ウルトラQが持つ知恵と勇気の面白さが融合していたからだ。

「毎回やってくる怪獣を、人類が知恵と勇気と作戦で立ち向かう。拾ったウルトラマンで」

「なんかしらんけど毎回やってくる怪獣、それに人類が拾ったウルトラマンを自分たちで培養してコピーして使えるように改造して戦う。ただしウルトラマン、なんとか科学で使えるようにしたけど、言うこと聞くのはピュアで選ばれた子どもたちだけなんで、それを脊髄に打ち込んで使うというSFチックな設定」

ざっくりこんな認識。

人造人間エヴァンゲリオンっていってるのにあれをロボットものだとして扱われるのがものすごく気にいらなかった。あれは人造ウルトラマンだろ!どっちかいうと特撮のほうだよ!ウルトラマンの脳髄に子供打ち込んで使うんだよ!ソフビだよ!っていつも憤慨してた。

その毎回のアイデアがアニメという手段を活かしアクターやぬいぐるみ、撮影の制限なしでとてつもなく広がる、しかも女の子はとてもかわいい、それが最高の楽しみだった。

毎回毎回、怪獣(使徒)は「なんだこれww」ってアイデアの連発、それに対抗する科学特捜隊ネルフ)の作戦もハチャメチャだけどエヴァンゲリオンを組織側が作戦として使えることでアリなのか?という期待が出てくる。それが最高にスタイリッシュにかっこよく、しかしコミカルにかわいいキャラクターで描かれる。もう好きの総合商社。

スタンダードな力のぶつかり合いから、二人でユニゾン、日本中の電気を集めて狙撃、マグマの中、上から落ちてくるだけ、電子戦のみ、ウルトラマンエヴァ)乗っ取り、ガチ強いゼットン、人間の姿とサイズ(カオルくん)、とウルトラシリーズの選りすぐりをさらに濃くした最高のバトルだ。

で、ここで力尽きてしまった。SF的味付け程度のバックグランド設定がここで仇となってしまったのだ。もっと、もっとすごい最後の戦いをという期待に押しつぶされてしまったように思える。エヴァンゲリオンはあまりに当時、飢えたアニメファンを取り込みすぎてしまっていたのだ。

エスカレーションしすぎたのをなんとかまとめきった「トップをねらえ」以上のアイデアなどそうそうあるわけがない。

ドラマ面での決着をつけるだけなんだから、今回の「シン・エヴァンゲリオン」ぐらい陳腐でもよかったのだ。

だけどここまでが最高だっただけに、陳腐な終わり方など許せなかった。スッキリできる終わり方なんて陳腐だ。前作のナディアも「生きろ」って陳腐な終わり方だった。そのプレッシャーもあったのだろう。それは面白くない、もっともっとひねるんだ!で壊れた。

それで出来たのが「Airまごころを君に

再チャレンジしたのが「Q」

でもダメだった。

それが「陳腐でいい、僕がスッキリじゃなくて、みんながスッキリできるようにちゃんと終わらせよう」と監督が思えるようになるまでQから8年、トータルで26年かかった。

これは、そういう話だと思う。