内容がないのではなく、内容にコミットすると共犯者になるコミュニケーションだから参加できない。

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非コミュ大好きはてな村に見事に煽りタイトルをぶち込んだだけあって盛大にウケている。

さて、表題の内容がないコミュニケーションだが、実は非コミュ層はあんがい内容がないトークは得意だったりする。本当に内容がないなら無害だからだ。

「いい天気ですね。」「そうですね。」「明日は雨っぽいですよ。傘もってきたほうがいいですかね。」「折りたたみ持ってますよ」

ただこういったコミュニケーションをいくら積み重ねても「無害な人」以上にはならない。小数点以下をいくら掛け算しても大きくならないようなものだ。ゼロにはならないがこの人と積極的に話したい、お近づきになりたい、という目的で無害なコミュニケーションを繰り返すことはあまり有効ではないのだ。

これらで出来るのは「話しかけても大丈夫な人」ぐらいまでだ。シロクマ氏の推奨方法ではたぶんこの部分で止まっている。

さて、ここから先、ウェイ層に食い込む意味でのコミュニケーションとは、有毒なコミュニケーションになっていかなくてはならない。

典型的な例としては「誰かをダシにして話すこと」「ヒトについて話すこと」だ。悪口、陰口とまではいかないまでも「○○さんってさあ」ってところだ。この領域に踏み込むということは「共犯者」にならなくてはならない。多くの非コミュは「言われる側」もしくは「言われているという自意識」にとらわれているので「言う側」に回ることは非常に抵抗がある。この時点でコミュニケーションを離脱する。

だが、ここで入っていかないと「仲間」にはなれない。しかし非コミュ層というのは「人の悪口を言ってはいけません」「人の陰口を言ってはいけません」「人の嫌がることをしてはいけません」という指導を素直に受け、自分がされて非常に嫌な思いをした(もしくはしたと思いこんでいる)のでここで立ち止まる。これ以上行ったら、自分は「悪い側」に落ちてしまう。オレはアイツラみたいにはならない!というプライドと正義感がここで離脱を選択してしまう。

で、「アイツラの話は内容がない(人の噂ばかり)」となるわけだ。

モノ、コトの話、公人に近い芸能人や有名人をダシにしての批評的会話は「してもいいこと」なので抵抗がないが、ごく身近な人物「だれそれさん」をダシにして会話することはものすごく抵抗がある。一方で「共通の知人」以上に会話を盛り上げるダシはそうそうないのだ。なのでメディアに掲載されたモノゴトのみで会話をしようとすると、モノやコトへの造詣が深く興味の気が合う人以外とはなかなか会話が続かない。

実際に内容がないかどうかよりも、「それは人としてすべきではない」という意味で内容がないという表現をする。

では「あいつら」として悪く言うことは悪口ではないのか?個人を指して「だれそれさん」の悪口は言うことは「悪」だが、カテゴリー存在としての「あいつら」にすることによって「だれそれさん」だった個人は存在概念の「モノゴト」に置換される。「モノゴト」についてアレコレ物申すのは非コミュ的には教養的行為であり、「内容がない」会話から、「意味がある会話」へと昇華されるのだ。

「だれそれさん」の話ばかりしている>悪いヤツラがすること>教養のある人間のすることではない>内容がない といった展開なのである。

話の内容が実利的かどうかではない。不正義の行いは問答無用ですべきではないということでシャットアウトされてしまうのだ。ただこの”本来の”は教育が産んだ幻であり、偶像である。

実際には人をダシにする会話には悪口だけが含まれているわけではなく、その人の近況や悩み、良いことも多く含まれており、参加することは実利面からすれば十分あることもある。むしろ、そういう会話をしていないと周囲の人間を良くも悪くも理解することが出来ず、ますます会話に参加できない。「最近○○さん、●●のせいで元気なくってさあ」みたいな近況などもまったく把握できず、声をかけるキッカケもできないし、その人にって重要なことについて会話することも出来ない。

だがある意味では陰口にはちがいなく、それらを会話の中で厳密に分離し、悪口だけをシャットアウト検閲することは不可能である。不可能であるから最初からコミットする訳にはいかない。

ここで断絶が発生しているのだ。

毒をぜんぶ取り除こうとすると、美味しいところも何も口に出来なくなる。それが「内容がない会話ができない」ということの正体だ。